追悼 イビチャ・オシム監督

5月1日、オシム監督が亡くなった。その日、立ち上げたばかりのJホグワーツレディースの初大会出場で、東金のグランドでママから6年生まで、中1と中3の女子を中心に試合を楽しんだ。オシム監督にその姿をみてもらえたら、きっとうれしそうに一緒に微笑んでくれただろうと思う。
 日本にいるとき通訳の車からアマチュアのサッカーをしている姿をみつけると車を止めさせ、楽しそうに眺めていたこともあったという。草の根サッカーなしにサッカー文化は育たない。
 Jホグワーツが誕生した翌年2003年の2月。たまたまイベントで訪れたJEFの姉崎クラブハウスの横で新しい監督がきてると話題になっていて、子どもたちがサインをねだると独特の形でオシムとうれしそうに喜んで書いてくれた。それから数年、臨海サッカー場や出来立てのフクアリで何度オシム率いるJEFの試合を見に行ったこどだろう。どんどん強くなるJEFの選手たち。サッカーが上手くなるだけでなく、キャプテンの阿部選手がヤンチャなサッカー小僧からリーダー意識を身に着けたくましい紳士に成長する姿を目の当たりに見た。そしてその当時、姉ヶ崎のクラブハウスの横のグランドの一部を使ってJEFおとどけ隊の池上正コーチを中心に指導者講習があり1か月に1~2回夜集まって指導者の創造性を高めため、新しい練習をつくる講習にほぼ毎回通って勉強させてもらっていたので、池上コーチからオシムがこんな練習をやっているんだと直接リアルタイムで話を聞けた。オシム監督がいろいろ考えて練習をしていても選手がのらないときもあり、そんなときすぐきりかえて次の練習に変えていったという話も聞いた。
 オシム監督のサッカーには形(システム)がなかった。システムはいつも相手に合わせて動いていた。試合中でもFWがDFとチェンジしたり、左右のチェンジも走りながらクロスする動きなども当たり前のようで、常に先を読んで形を変えていた。そしていつも新鮮で、新しい試みがあった。研究熱心なことは驚くほどで、当時ビッグチームで首位争いをしていた浦和レッズをJEFの若手選手が崩しまくって勝った試合を見たとき、浦和の監督の頭の中がすべて見透かされていたのではないかとさえ思った。恐るべき頭脳で日本のサッカーを進化に導いてくれたオシム監督。故郷サラエボが戦火にあって戦争を憎んだオシムは、世界に誇る平和憲法の国日本で、楽しく美しくエレガントなサッカーを、魅力ある弁舌を使って指導してくれた。国境を越え、人種を超え、一人ひとりの個性を重んじ、ひとり1人をを成長に導く力をもつ偉大なオシム監督が指導者人生の最後を千葉で日本で過ごしたことを誇りに思う。そして何よりJホグワーツというクラブの大きな基礎を作ってくれたのが、当時の祖母井GM率いるJEFであり、オシム監督だったのだと思う。
 ウクライナの戦争をどうしたらいいか、今誰も答えをもっていない。そんなときオシムなら答えを探し出すのではとさえ思う。プーチンに直接会いにいこうというかもしれない。サッカーだけではない、大きな影響力をもつ人類の偉大な指導者を失ったと私が思うのは、大げさすぎるだろうか?

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